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だるろぐ

とてもだるだるした日記です http://about.daruyanagi.jp/

お知らせ

FAX と成績表。

faxed up

小学校の頃は、サッカーが大好きだった。

地元のサッカー少年団では、はじめGKだった。小学校4年のころかな、途中で背の高いイケメンが加入すると用済みとなり、DFにコンバートされた。そこで攻める楽しみを覚えたのか、突撃して帰ってこない子になったので、監督はポジションをMFにしてくれた。監督はグラサンをかけたイケメンで、キャプテン翼に出てくる監督にそっくりだった。もしかしたら、自分でそういう風にキャラを作っていたのかもしれない。

小学校の頃というのは、一番うまいのはFWにすると相場が決まっている。逆にいえば、FWじゃないということは決して一番うまいわけではないということだ。でも、それを苦に思うことはなかった。監督が僕のことを「うちのゲームメーカーだな」と言ってくれたから。ほんとにゲームメーカーとして役に立っていたかどうかは知らないけど、確かに、よく大声で指示を出しながらパスを出してたように思う。あと、サッカーをしすぎていたせいか、昔からすごく足が太く*1、小学生にしてはキック力があったので、ミドルシュートだのコーナーキックだのが好きだった。ただし、キックの正確性については聞かないでもらいたい。

そんな大好きなサッカーをやめたのは、小学校5年生の冬だった。

きっかけは、とある塾の全国模試を受けたこと。母が執拗に勧めるのでしかたたなく受けたのだけど、その点数がひどかった。4教科400点満点で全部足して60点もなかったんじゃないかな。小学校のカラーテストでほとんど100点しかとったことのない僕には、十分ショックだった。

というのも、昔の僕はサッカーと同じぐらい、本を読むのが大好きだった。夜、母に電灯を消されてから、布団の中、懐中電灯で隠れて本を読むのは日常茶飯事。出張ばかりでめったに顔を合わせない父も、よく本を買ってくれた。帰ってくると、一緒に本屋に行ってなんでも好きな本を買ってもらえるのがある種のキマリになっていた*2。なので、あんまり勉強しない割には昔から成績はよかったのだ。ちなみに、宿題忘れランキングはほとんど6年間、ぶっちぎりの一位*3をキープしていた*4

ともあれ、サッカーは小学校5年生の冬でやめた。

サッカーをやめるとき、少年団の世話役だった、先輩のお母さんに怒られた。サッカーに未練がなかったわけじゃないけれど、そのことでちょっとイラッときたので逆にスッパリ辞められた。ちなみに、その先輩は三重県代表でインターハイにまで行ったらしい。その先は知らない。

僕が行くことになった塾は「東京標準」という塾で、今はもうない。最初は名張(三重県)から八木(奈良県・橿原市)の教室まで、近鉄電車で通っていた。

東京標準では、1週間単位でカリキュラムが組まれており、平日にそれを学び、休日にはその習熟度テストを全国共通で受ける。そして、4教科400点満点中300点を取ったりすると、教室の名前が壁に張り出される。塾にはすぐに馴染んで、小学校6年に上がるころは、もう壁に名前が張り出される常連になっていた。教室もよりレベルの高い西大寺(奈良県・奈良市)に移り、通学時間は一時間半に延びた。平日は2日ほど塾へ通ったが、その残りはよく居残ってクラスメートとサッカーをして遊んだ。(わざと)放送委員になったので、下校時刻まで居残って、下校の放送を鳴らす義務があったのだ。

ということもあり、傍目から見るほどガリ勉らしいガリ勉はあんまりしなくて、日曜日の試験は2階建ての特急の下の席を占領し、みんなで付け焼刃の対策を考えるのが日課*5。塾の講義もゆるくて、午後に平城宮址で遊んだり、中学入試には直接関係のない天体の授業などを受けていたのを覚えている。

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あともう一つ、塾通いで電車に乗るようになってから趣味になったのが、近鉄電車の時刻表を集めること。日曜日に早く授業が終われば、そのあと遠くまで電車に乗って、行く先々で駅員さんに時刻表をもらっていた。いまでも、近鉄線全線の時刻表のコンプリートした箱を大事にしている。

今思えば、西大寺 - 名張間の定期券しかもっていなかった*6のに吉野線の時刻表をもっているなんて明らかにキセルなのだけど*7、駅員さんはみんなやさしく、逆に路線図だのパンフレットだのをくれた。この趣味のことは母には黙っていたが、夏休みに3日間のフリーパスを買ってくれと頼んだらすんなり買ってくれたので、案外知っていたのだと思う。そのフリーパスで念願の近鉄全線踏破と駅名しりとりを完成させ、記念にメダルをお貰ったのはいい思い出だ*8

肝心の中学入試は、第3志望ぐらいのところを通った。もともと本番に弱い子だったし(大学受験の時もそれで一浪した)、その当時の実力ではおそらく2回か3回受けて1回通るかな、というのが実情だったろう。母はもう少し僕を早く入塾させていれば、と地団太踏んでいた。

当初の予定では3月まで受験が続くはずが*9、父と母が保護者説明会でその受かった学校をかなり気に入っていたこともあり、結局は最後まで受けず。卒業旅行を企画していた僕にとっても、受験が早く終わるのは願ったりかなったりで、あと好きな本を読んだり、卒業式の日にキライな子と喧嘩して仲良くなったり、卒業旅行の企画を立てたりしていた。

週末、父と話をしていて「あの頃、毎週塾の成績をFAXで送ってきてくれたことが、一番仕事の励みになった」と言っていたので、少し昔のことを思い出した。母が毎週コソコソなにかしているな、というのは知っていたが……。

いまでも成績表のファイルは残っていて、几帳面に毎週ごと、僕の名前のところだけ蛍光ペンが引いてある。

*1:太もものサイズに合わせて校服の短パンを買っていたので、腰回りが余り、ベルトでぎゅうぎゅうにしめてズボンが落ちないようにしていた

*2:小遣いはくれなかった

*3:大阪の学校の頃は、忘れ物ランキングとあわせて二冠を制していた

*4:おかげで小学校6年生のころの担任にはすごく嫌われていた。卒業時に贈られた言葉は「憎まれっ子世に憚る」

*5:特急券代を払った記憶がないのだが……(;^ω^)

*6:小遣いはあまりくれなかった

*7:ごめんなさい。近鉄にたいして謝らなければいけないことはもっとあるので、今度社債でも買おうかと思う

*8:今でもそういう企画やってるんじゃないかな?

*9:関西では当時、僕の母校を先陣に、三重・奈良、最後に三月上旬の大阪と試験が実施されていた