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だるろぐ

とてもだるだるした日記です http://about.daruyanagi.jp/

お知らせ

道徳について

とりとめもないこと

28 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/04/20(土) 21:23:32.07 ID:7lAPyCHo0
外食でうちの家は金を払ったことが無かった
大阪に住んでいたのだけど京都との境あたりだから京都まで車で行って外食する
それで食事を済ませたら何気なく一人ずつ席を立ってそのまま帰るってのがいつもの定番だった
子供の俺が一番最初に車に帰る役回りだった
京都まで行くのは親いわく県が変わると警察も変わるからその方がええってことだった

両親が逮捕されてから自分の家が異常だと知った BIPブログ

所詮ネットの話なので真偽は不明だけれど、ちょっと興味深かった。

“フツー”の家庭ならこういった人たちと交わることすらあまりないだろうけれど、実際に存在する。でも、こういう人たちを非難したり、貶める権利が“フツー”の人にあるかといえば微妙なところだ。

二種類の道徳

198 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/04/20(土) 23:36:19.48 id:fkqKW1QaT
トンキン人(引用注:おそらく東京に住む人の意)も悪いこと、他人を困らせることと分かってて平気で傘盗むじゃん
それが行き過ぎるとこうなるんだろ
まあまともになれたみたいでよかったな

>>198
それは結構ききたいことだった。
普通っぽい人とか育ちの良い人っぽいひとでもへっちゃらで傘をぱくったりするよね?
あと、家の近くにすごい名門大学あるのだけどそこの学生が普通に優先座席に座ってたりする
ああいうことをするのは世の中的にそんなに悪くないことなのかな?
そういうのもいちいち考えないとわからない

道徳というのは、「理性的に考えて正しいと導き出される行動を実践する」ことだと思う*1。まぁ、これは少し厳しすぎる定義(カント的?)で、一般的には「歴史的・社会的に共有されている正義に則った行動を実践すること」程度の意味ではないかな。

つまり、道徳を身に着けている人には二つのパターンがある。

  • 道徳を習慣として身につけている人
  • 道徳を理性の命令として身につけている人

たとえば、“普通っぽい人とか育ちの良い人っぽいひとでもへっちゃらで傘をぱくったりする”のは、道徳を習慣として身につけている例の典型だ。彼らはちゃんと道徳を身につけている。外食すればちゃんとおカネを払うだろうし、ましてや子どもに盗みをやらせるはずもない。ただ、残念ながら「傘を盗むべきではない」という習慣をたまたま身につけ損なっただけだ。

逆に言えば、傘を盗まないからと言って道徳を理性の命令として身につけているとは限らない。“傘を盗まない”という規則を習慣として身につけているだけなのかもしれない。

また、道徳を習慣として身につけている人の特徴として、“未体験の倫理問題を突きつけられると弱い”ということが挙げられると思う。道徳の構築を経験にのみ頼り、その本質的意味を問いただしたり、体系だって理論立てない人は、経験したことのない“究極の選択”を突きつけられたとき、選択に苦しむ。そして、多くの場合「何も選択しない」ことを選ぶ。責任と権限をもつ立場の人がこれをやると、その悪影響は計り知れない。わざわざ僕が例を挙げるまでもないだろう。

ただひとつ例を挙げれば、事故で目の前で人が死んだにもかかわらず、僕には何もできなかったことがある。自分はぼーっとしていて、ほかの人が救急車を呼んだり、介抱をしていた。その意味で、僕は“道徳を習慣として身につけている人”に過ぎなかった。むしろ、道徳に関して考えたこともない、感情で反射的に行動する人たちの方が、そのような場合には「何も選択しない」ことよりも正しい行動をするらしい*2

とはいえ、一度知恵の実をかじると、そういう人には決して戻れない。そんな哀れな人間にできるのは、自覚的・地道に“道徳を理性の命令として身につける”ことしかないのだろう。そのことに気付いたおかげで、自分はあの時より多少なりともマシな人間になったと思う。いまだに確固たる自信をもつまでには至らないが。

道徳の発達過程

さて、経験と理性は基本的に協働的関係にあると思うが、議論の出発点としては、お互いに独立したものと仮定すべきだろう。というのも、理性で実体のある経験は得られないし、とはいえ、経験がなくても理性は働かせうるからだ。だとすれば、道徳を習慣として・理性的に、身につけているか・いないかで以下のマトリックスが得られると思う。

習慣的道徳あり 習慣的道徳なし
理性的道徳あり ほんとうに道徳的な人 (存在するとは考えにくい)
理性的道徳なし フツーの人 不道徳な人

とはいえ、習慣的道徳を一切身につけず、理性的な道徳は身につけている、という類の人間はあまり想像しがたい。もしかしたら普遍宗教の創始者か、純粋な道徳哲学者があてはまるのかもしれないが、どちらにしても超人的だと思う。

となれば、道徳のない状態 → 習慣的に道徳を身につけた状態 → 理性的な道徳も身につけた状態という風に“進歩”(発達?)していくのが自然なのではないだろうか。道徳は経験で身につけるべきか、理性によって身につけるべきか、と問われれば、「まず経験で、次いで理性で」というのが一応の答えになるのだろう。ただ、習慣的に道徳を身につけた状態 → 理性的な道徳も身につけた状態へのステップアップに手間取ると、頭でっかちで、それでいて何もできない人に陥る危険がある。まぁ、それが自分のことなのだけど。

*1:その基準にはいろいろあって、等価であったり、判断不能な場合は、感情によって選択するしかない。合理的なロバは飢え死にする http://daruyanagi.jp/entry/2012/05/08/072709

*2:孟子でいうところの惻隠の情か