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だるろぐ

とてもだるだるした日記です http://about.daruyanagi.jp/

お知らせ

冷たいホットコーヒーをひとつ。

最近は、毎日のように親父と話をする(まぁ、二人で暮らしているのだから当たり前なのだが)。何について話をするのかというと、だいたい時事問題についてだ。最近の事件について、ニュースを見ながらあーだこーだとしゃべっている。

自分がみるに、うちの親父は割とフツーな保守主義者だ。納得のいかない事件があれば憤るし、痛快であれば賞賛する。別にバカにしているのではなくて、たぶんこういうのが真っ当な感覚なのだと思う。

では自分はどうなのかというと、それがよくわからない。ただ、親父に賛同してばかりいても面白くないので、わざと反対意見を編み出して述べることも少なくない。自然、ちょっとリベラル寄りな感じになっている。

しかし、これがよく「冷たい」と言われてしまう。お前は家族とか友人のような繋がりが破壊されてもなんとも思わないのかとか、努力して今の地位を築いてきた人の立場を合理的だという理由のみで損じてよいのかと。

――確かに、それはあまりよいことではないような気もする。

ただ、思わないでもない。ちょっとリベラルな政策を導入しただけで壊れてしまうようなものなど、実質的にはすでに壊れてしまっているのではないか。

たとえば、“熟年離婚”なんてものがある。

1969年(昭和44年)には新聞記事で、夫の退職を機に、それまで経済的な理由で離婚を控えていた妻が「いただくものはいただいてさっぱりし、老後を一人で送る」形で高年齢層の離婚が「じりじりと増えつつある」と報じられており、この時代から中高年夫婦の離婚増加が話題になっていたことが窺える。

2007年(平成19年)4月の年金制度の変更で、夫の厚生年金を離婚時に分割できるようになった(それまでは、離婚したら妻はもらえなかった)ときには、中高年夫婦が高い関心を寄せたという。実際に、相談件数は急増し、離婚を考えている者は多いという

離婚 - Wikipedia

これも見ようによっては“専業主婦の地位向上のために変更した年金制度が、これまでの夫婦のあり方を壊した”と言えるかもしれない。リベラルな制度が保守派の好きな“古き良きもの”を破壊した例と言えると思う。

だが、たかがこの程度の制度変更で壊れてしまう夫婦などというものを、本当の夫婦関係と呼べるのだろうか。もうすでに失敗してしまっていて、ただ“離婚しては年金がもらえない”という理由だけで辛うじてつながっていただけではないのか。それは果たして歪な制度をそのままにしてまで守るべきものだろうか。

(とはいえ、“熟年離婚”の話は少し自分にとって都合のよすぎる例で、これが TPP の話などになるともう少し難しくなるのだが……。)

どんな問題であれ、リベラルな――自由で開けた、それれぞれが平等に扱われる社会を目指す――方向へ進むのはよいことだと個人的には思っている。無機質で冷たい制度の上であっても、僕らはちゃんと家族とか友人とか共同体というものを築いていけるハズ。また、不幸にして人生のスタート地点で家族とか友人とか共同体というものに縁をもつことができなかった人にとっては、無機質で冷たい制度の方がよっぽど公平で温かみのあるものになるハズだとも思う。

今の社会は“家族”や“努力”をある程度要請したうえで、それらが壊れたり達成できなかった時の保険を付け加えた形になっている。けれど、本当はそれを逆転させるべきなんだ。怠惰な風来坊でもとりあえず死にはしない社会にして、その上に人間関係や競争社会を築くようにする。たぶん――で申し訳ないのだが――、そこで築けるものはけっして制度の変更や環境の変化などで簡単に壊れない、本当のモノになるような気がする。学校を離れても続く友人関係とか、経済的に浮き沈みがあっても変わらず協力していける夫婦関係とか、給料だけでなく情熱でも繋がっている会社とか(夢を見過ぎだろうか)。

ただし、変わるのは何かと痛みを伴うものだし、実際の問題として、みんながみんなを平等に扱うには僕らひとりひとりが無力すぎる。なので、目標を設けてみんながそれぞれのペースで、ゆっくりと、でも着実に変われるような余地もほしいのだけど。ヒトにはそれぞれに発達段階がある。そういうのを無視したリベラルは支持できないなぁ、と思ってる。そこがたぶん、たまに「お前は右寄りだ」と言われたりもする理由のような気もする。まぁ、右だの左だのでスッパリ分類できる人間などあまりいないとも思うのだけど。

あと、もう一つ。

“努力して今の地位を築いてきた人の立場を合理的だという理由のみで損じてよいのか”という問題は非常に難しい。それを既得権益と断じてもよいのだけれど、そういうものが保護されないとなれば努力の意味もなくなる。近代社会にとって、このような“所有権”は絶対のものであるべきだし。“変わる”ならある程度頑張ってくれって感じだけど、“捨てる”ことまで強要はできないよな。

少しだけ難しい言葉で言えば、経済学的なメソッドで許されるのは(補償原理を許容した)パレート改善で、誰かが損をすることを許容する判断は、政治の世界で決着をつけるしかない。永遠に人間同士でお話し合いをしなきゃならんってことだ。気が重くなる。でも、逆にいえば、経済学的なメソッドで解決できる問題は、冷たかろうがなんだろうがさっさとやっちまうに限るかもしれない。ほかにもやるべきことが山積しているのだから。