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だるろぐ

とてもだるだるした日記です http://about.daruyanagi.jp/

お知らせ

『戦争の技術 』

読書 共和主義

戦争の技術 (ちくま学芸文庫)

戦争の技術 (ちくま学芸文庫)

居酒屋のカウンターでぜんぶ読んだ。

独りで飲みに行ける店が近所にあまりなかったのだけど、ここはおしゃれ過ぎず、かといってけっして汚いわけでもなく、割りとのんびりできて最近気に入っている。基本的に焼き鳥屋さんっぽいけど、お魚もちょっとあるのがポイント。外だとお魚食べたいしねー、お魚好きだけど、生ごみメンドイし自炊はしたくない。

さてさて、本書はマキャヴェリ三部作(『君主論』『ディスコルシ(政略論)』『戦争の技術(戦術論)』)の一角で、戦争をテーマにしている。世間の人気度・知名度で言えば、『君主論』>>(越えられない壁)>>『ディスコルシ』>>>>『戦争の技術 』だけど、個人的な読書優先度を言わせてもらえば『ディスコルシ』>>(越えられない壁)>>>『君主論』>>>『戦争の技術 』だと思う。なぜみんな『君主論』が好きなのか、わしにはさっぱりわからない(君主にでもなりたいのか?)。断然『ディスコルシ』の方が面白いし、ためになる。

まぁ、どっちにしろ『戦争の技術』は読まなくていい部類なのだけど、実は生前に刊行されたのは『戦争の技術』だけらしい。当時の現代的意義という点では、『戦争の技術 』>>(越えられない壁)>>>『ディスコルシ』≒『君主論』だったようだ。たぶん、著者としても『戦争の技術 』は『ディスコルシ』と同じぐらい愛着のある著書だったのではないかと読んでて感じた。『君主論』は……あれはほとんど就職活動の一環のようなものだったろう。『ディスコルシ』の君主向けエッセンスを取り出した感じがするのだけど、自分の読み間違いだろうか。

『戦争の技術』は1対複数の対話形式になっている。主人公は老将ファブリツィオ・コロンナで、マキャヴェリが彼に仮託してしゃべりまくる。一介の書記官(外交官)だったくせに妙に熱が入っていて、軍隊の募集から編成、運用に至るまで、詳細に論じているのがちょっとおかしいというか、微笑ましい。聞き役は

  • コジモ・ルッチェライ:“オルティ・オリチェッラーリの園”(政治的話題のサークル)の主宰だが、25歳で病死。『ディスコルシ』を献呈される。
  • ザノービ・ブオンデルモンティ:商人・銀行家。『ディスコルシ』などを献呈される
  • バッティスタ・デッラ・パッラ:マキャヴェリが枢機卿ジュリオ・デ・メディチなどのもとで働けるよう尽力した友人
  • ルイージ・アラマンニ:詩人・作家。ザノービとともに『カストルッチョ伝』を献呈される

いずれも“オルティ・オリチェッラーリの園”の主要メンバーであった。『戦争の技術 』の刊行は1520年で、ちょうどこのサークルに招かれていたころにあたる。

当時のマキャヴェリは、フィレンツェ政界への復帰(とはいえ、政治家ではなく書記官としてだが)がもはや絶望的となったばかりか、イタリアの希望と目していたチェーザレ・ボルジアの破滅を目の当たりにし、ここで若者たちに囲まれているのがおそらく唯一の慰めであったのではないだろうか。

しかし、1522年、ザノービ・バッティスタ・ルイージの3人は枢機卿ジュリオ・デ・メディチ(のちのローマ教皇・クレメンス7世)の暗殺計画に加担し、逮捕される。唯一ルイージ・アラマンニのみはフランスに逃亡できたものの、マキャヴェリはショックを受けたことだろう。以前、マキャヴェリは反メディチ陰謀に加担したと濡れ衣を着せられ、投獄されたことがある(保釈金を支払って釈放)。しかし、今回は濡れ衣さえ着せられなかった。弟子たちは先生に無断で稚拙な計画を立て、破滅への道を勝手に爆走してしまったのだ。サークルでは『戦争の技術』の回し読みも行われていたであろうにもかかわらず、そこからはなんの教訓も引き出されなかった。人を導く身にとって、これほど悲しいこともないだろう。

『戦争の技術』の内容は“ようやく大砲が実用化された時代の戦術論”といった趣で、現代ではほとんどまったくといっていいほど意義を失ってしまっている。けれど、“市民武装論”の部分だけは傾聴に値するだろう。現代でも徴兵制を唱える人は少なくなく、また、それに反対する人は多い。しかし、そのいずれもマキャヴェリの“市民武装論”への注目と敬意を欠いているように思う。――とはいえ、この点は『ディスコルシ』でも触れられているので、そっちでよい気も。個人的には“一度肯定したうえでの否定派”という立場なのだけど、これはまぁ、また機会があれば。

ともかく、ハゲたおちゃらけマンの熱意にあふれた軍事論に触れられただけで満足。それだけに、彼の運命を思うと哀しくなってしまう。晩年、フィレンツェは僭主メディチを追放して共和主義を取り戻す。それに最後の希望を見出し、共和国で己の能力を活かしたいと望んだマキャヴェリだったが、逆に共和国書記官であったにもかかわらずメディチに加担した(『君主論』を書いて就職活動をしたり、クレメンス7世から年金をもらって『フィレンツェ史』を書いていたのは事実だが)ことを責められて追放。失意のうちにこの世を去らなければならなかった。――人一倍の温かい心をもっていたのに、冷めた頭脳ゆえに忌み嫌われるタイプの典型のような人で、同情に絶えない。

4杯目の生ビールの最後の一口が苦かった。