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だるろぐ

とてもだるだるした日記です http://about.daruyanagi.jp/

お知らせ

36歳になりました。

とりとめもないこと

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36歳になりました。2倍にすると72歳です。確か祖父が亡くなったのがそれぐらいの歳でした。自分もそれぐらい生きると仮定すれば、今日が人生のちょうど半分あたりということになります。Facebook や Twitter では祝福をいただき、ありがとうございます。正直、返信がめんどくさくなるぐらいきて(ぉぃ!)、ビックリしました。返信し忘れがなければいいんですけど。

最近は、ブログを書くよりも、なんとなくぼんやり過ごすことを優先してきました。ベランダから松山城の天守眺めたり、ブラリと墓参り行ってみたり。墓参りに行っても、別に熱心に掃除するわけでもなく、ちょちょいと目立つ雑草を抜いて、花と酒を供え、ダバーッと墓石に水をぶっかけるだけで、あとは自分の育ったあたりを見渡したり、本堂で涼んでぼーっとしたりするだけなのですが。人生が三幕か四幕構成だとすれば、今はちょうど二幕を閉じたところ。これからどうするかなぁ、どうしたらいいんだろうなぁ、とアレコレ考えている感じです。

振り返ると「ずいぶん遠くまで来たものだ」と感じますが、周りの友人の活躍を見ると「あんまり高く登ることはできなかった」というのが実感です。

「ずいぶん遠くまで来たものだ」というのは、自分もそれなりにがんばってきたという自負です。

たとえば、今年、いろいろあった借金やら年金の未払い分を完済することができました。思い返せば10年前、実家の会社を預かる決意をして最初のミッションが、「その日の15時までに300万を集めること」でした。15時というのは銀行のシャッターが下りるまでで、要するに当座預金がショートして不渡りを出しそうになっていたのでした。結局、200万は親戚から出してもらい、残りは消費者金融を3件ぐらい回ってカードを作り、限度額いっぱいまで引っこ抜いてしのぎました(商工ローンに頼めば、その日中に持ってきてくれたりするのにな! あとでお世話になったわ!)。なんせ毎月3千万だか4千万だかが入ってくるのに、俺には大型トラックで錦糸町の料金所を通るときのカネさえ残らない。おカネと人々の思惑がものすごい勢いで渦を巻いているなかに投げ込まれたそのときの僕には、学部でちょろっと学んだ初歩の経済学や、サークルで親しんだ哲学者たちの言葉などは、まったく役に立たなかった*1。経済学部なら一回生の最初の講義で M2 だの CD だの習うと思いますが、なんせ自分は手形の裏書も、小切手の切り方も知らなかった。

そういう自分をいまの目から見ると、「多少はマシにはなったか」と思います。結局、そのときに自腹で作った借金は会社で返してもらえず、むしろ最盛期はその2倍か3倍にまで膨れ上がったのですが、なんとかチマチマと返すことができました。国民年金の未払い分(お給料がないのだから当然払えていない)も、遡って支払ったし、割と頑張ったなーって感じです。前職でなかなかアルバイトから社員にしてもらえなかった時代が一番つらかった――頑張って結果出せば、正社員採用なんてすぐだと思っていたのですが、それは自分の感覚ではそうなだけであって、世間ではそうではないみたい。よくもまぁ、20万円に届かない手取りで、毎月5万とか返してたよなーと思います。こればっかりは誰も褒めてくれないので、自分で褒めるしかない。今、ビールを飲みながらこのブログを書いているのですが、とても晴れやかな気分。

でも、その一方で「あんまり高く登ることはできなかった」。本来、この年齢になっていれば備えているべきものを、自分はかなり欠いている。そういう焦りで、背中あたりがジリジリする感じがあります。

貯金も少ない(最近やっとこさ株で遊べるぐらいにはなった)。結婚もしていないし、子どももいない。不正燃料をつかまされたとか、移動式クレーンの免許を持っているだとか、お金借りに行ったところが実は闇金っぽくて、間一髪虎口を脱したなどいう、割としょうもない経験は人並み以上にあるけれど、自分の家を買ったとか、資格を得たとか、なにか実績を築いたとか、これから何かをなすための布石を打ってきたとか、そういうもっと当たり前のものはまったく得られなかった。社会に出て10年も経つのに、まだ「ひのきのぼう」をもっている――そんな情けなく、無力な感じが沸き上がってきます(でも、もしかしたらパラメーターだけは昔よりちょっと上がってるかもしれない)。

そういう自分に欠けたものを羨ましがっていてもしょうがないんだけど、子どもはほしいなぁ。

僕が個人的に自分へ課していることの一つに、「市民として生きる」というのがあります。まぁ、この「市民」の定義がなかなか難しいのですが(税金ちゃんと払うとか、選挙にちゃんと行くとか?)、一つの定義として「自分の骨を処理してくれる人は自分で確保する」というのはある。社会が高度化すると、どうしても個人主義が跋扈する傾向にあります。それ自体は市民的自由の一つの顕れであり、嘉すべきことでしょう。でも、ヒトは生まれてくるときと死んでいく時だけは、個人ではどうにもならない。原始社会ならば朽ちるに任せてもよいのだけれど、市民社会において、それは一人前の行動とは認められないでしょう。「以託六尺之孤」などという言葉がありますが、「以託六寸之壺*2に足る子ども、家族、知己をもっておくのは君子に欠くべからざることだと思います。まぁ、子どもいたら人生楽しいだろうなぁ! というのが正直なところなんですけど。

でも、ここで「あんまり高く登ることはできなかった」ってのが響いてくるんですよね。どう考えても、自分は婚活市場において“お買い得物件”ではない(白目。個人的な負債は片づけたけれど、別に貯金があるわけじゃないし、実入りが伸びることも期待できないし、難題は山積……若い子だったら恋愛でもしてそういう逡巡を大ナタでぶった切ることもできた――可能性が微レ存だけど、もうおっさんだしな。「2人の兄妹、4人の甥、8人のいとこのためなら喜んで命を差し出すだろう」を地で行った方が、総合的にはいい判断なのかもしれない。弟・妹は子どもをもうけて頑張っているけれど、今の世の中、なにがあるかわからない。日ごろはブラブラしているけれど(おちん○んのことではない)、イザというときに彼らを援助してあげられるようなおっさんが一人、一族にいてもいいだろうと思わないでもない。最悪、自分の骨の件は土下座してお願いしよう。

とにかく!

そういうのをそろそろちゃんと決断しなきゃいけない時期なのに、なんとも踏ん切りがつかない。今年はそういうのを乗り越えられる年にしたいかなぁ。結婚・子育てルートがだめなら、陸マイラーからスーパーフライヤーズカード修行僧にジョブチェンジするつもりです。

まぁ、なんでもいいんだけど、残りの人生、自分なりに満足できる形で終われますように。それだけ。

*1:長い目で見れば、彼らに出会わなければ“終わっていた”ようにも思うので、無駄ではなかったと感じますが

*2:骨壺は六寸ぐらいらしいですね、西日本では